『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』

読書録

キツネに化かされた!

こんな話はかつての日本にはたくさんあった。しかし、それは1965年を境にぱったりなくなってしまう。

ここから考察が始まる。



里山の暮らしに憧れ、また民俗学的な話も大好き僕は、『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』というタイトルを見て惹きつけられた。

今回はこの本を読んでの感想を紹介しようと思う。

1965年に日本は変わった

1965年というと高度経済成長期の真っただ中だ。このころ、日本人の生活は急激に変化した。三種の神器と呼ばれるテレビ・洗濯機・冷蔵庫が都市部から徐々に農村部にも普及し、生活は物質的に豊かになった。

1960年代に入ると、燃料のありかたも変わる。石油やプロパンガスなどが普及し、炭焼きの文化がなくなる。

また、精神第一主義の嵐が吹き続けた大戦の反動からか、科学的に説明のできないものはすべて誤りであるという風潮も人々の間に広がっていった。

また、教育に対する人々の意識が変わり、入試で求められる正解・不正解がはっきりしていないことは受け入れられない風潮も問題だったのではないかという。

このほかにも、様々な面から、人々の暮らしは1965年あたりを境目に変わったのだという。



日本人がキツネにだまされなくなったという話をすると、人間だけでなく、キツネの方が変わったのだという話をする人もいるという。


原生林が減少し、妖力を持った老年のキツネが生きられる環境がなくなったことも原因としてあげられるとか。



あくまで筆者の経験に基づいての話だが、キツネが人をだますという話は1965年からなくなる。その原因は様々な場所に求められる。

外国人はキツネにだまされない

村という共同体に暮らす日本人がキツネにだまされていた1965年以前にも、全くだまされない人がいたという。

それは村にやってくる外国人だ。近代技術を導入するため、村に招いた明治の外国人は、キツネにだまされるということは決してなかったという。これは当時の日本人にとっては「事件」であった

なぜ外国人はキツネにだまされなかったか。
それは、村人を包み込む世界と外国人を包み込む世界が違ったからであった。

自然の中に暮らし、自らをやがて自然に帰る存在だと考えて過ごしていた日本の村人はキツネにだまされる。そういう自然観・生命観で生きているからだ。

自然は自分たちの暮らしの中にあり、自分も命が尽きればご先祖様と同じように自然に帰る。

しかし、そのように自然を捉えていない外国人は決してキツネにだまされるということはない。



このあたりから、話題はキツネから歴史の話へと移っていく。
もっと民俗学的な伝承の話がたくさん出てくるのかと思ったのだが、これがまた面白い。

歴史とは

「過去とは現在から照射された過去である。」

「歴史」とは、過去に起こった幾つかの事実を現在の視点から再構築し、一本の物語にするために意味づけしたものである。個人の歴史にしろ国家の歴史にしろ、当然そこからこぼれるものの方が多い。

そのことを細かく説明している。
題名とは変わって、本書のメインはこっちなのではないだろうか。歴史哲学というものが非常にわかりやすく書かれている。

キツネが実際に人をだましたかどうかは問題ではなくが、キツネが人をだましたという歴史が「見えないもの」として捨象されてしまうことが問題なのだろう。

おわりに

この本は、入試問題でかなり頻繁に目にする。内山節さんの文章は読みやすいし、内容的にも興味深いものが多い(個人的に)

予備校講師の先生も、新書の入門編として位置付けているのを見たことがあるので、少し難しめの本にトライしたいという人は、中学3年生以上なら全員にオススメできる。



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