数えきれない、日常の「らしさ」
「○○らしさ」とは何なのでしょうか。「男らしさ」、「女らしさ」、「日本人らしさ」、「大人らしさ」、「子供らしさ」、「自分らしさ」、「あなたらしさ」、このようにいろいろな「らしさ」を耳にします。
この「らしさ」という考え方はその人のありかたを成長とともに確かなものにしていきます。現在の日本では、まだまだ、男なら「男らしく」、女なら「女らしく」生きていくことが求められます。子供も素直に元気に「子供らしく」生きることが良いことだとされます。
このことは、人が成長していくにあたって、「自分とは何者でどういう生き方をしていくのか」を自覚していくうえで重要な役割を担っているといえます。
しかし、このことによって、本人も「自分は○○だから○○らしく生きる必要がある」と、無意識のうちに「○○らしさ」を演じることになります。これは本当の意味での「その人らしさ」を考えたとき、必ずしも良いことだとは言えないはずです。
今回は、このブログのテーマに合わせて「中学生らしさ」について考えていきます。
「らしさ」は誰が決めるの?
多くの場合、「らしさ」には基本的には他者、自分以外の人からの視線が含まれます。
どういうことかというと、「○○らしい」はその本人が決めているのではなく、周りの人が決めているということです。「中学生らしさ」は中学生が決めているのではなく、「中学生にはこうであってほしい、こうあるべきだ」という周囲の大人の考えが入り込んでいます。
この外部から決められた「らしさ」は中学生が道を逸れそうになったときや、日々生活していくうえでの一つの道しるべになるでしょう。しかし、もし周りの大人の思う「中学生らしさ」が間違っていたら、どうなりますか? 中学生に限らず、「らしさ」はなりたくない自分を演じることを強制してしまう危険性をもっています。
そんな時に必要になるのが、別の「らしさ」です。
そもそも「中学生らしさ」は範囲が広すぎて、かなりアバウトな表現です。全国の中学生に文句なしに当てはまる、最低限の指針が「中学生らしさ」です。それより深く個人個人に踏み込むことはできません。
そこから先の、「自分らしさ」は自分で作らなければいけません。他の人の視線だけでなく、「自分がどうなりたいか」を考えながら決めていくのが自分らしさです。自分の“想い”と、自分を客観的に見たときの“現実の自分”。この「自分らしさ」を自分で決めていくのが中学生という時期の難しさです。
これを決めていくのは難しく、時には苦しいことですが、必ず乗り越えなければいけないことです。
「らしさ」は後回し
ここまで「らしさ」について考えてきましたが、「らしさ」はあくまで結果としてついてくるものです。自分がなりたい理想像に近づけるように努力する。その結果が「自分らしさ」です。
「らしさ」が先行するとダメ。選手を縛り付けるだけです。人としてあるべき姿を追求したときに結果として中学生らしさや野球選手らしさがついてくきます。
周りの人の役割
中学生であれば自分が「こうなりたい」と思いながら生きていても、現実とのギャップに圧倒され、自分がどう生きていけばいいのかがわからなくなる時があります。また、あまりに違う方向に向かってしまうこともあるかもしれません。
そんな時に必要なのは周りの大人の想いです。それは第一に親であり、中学野球児であれば指導者も大事な役割を担うでしょう。自分が誰だかわからなくなったとき、身近な人が教えてくれる「あなたらしさ」は時として大きな救いになります。
最後に
今回は私の中学生時代の経験なども踏まえて書いたつもりです。中学生とは人として大きく変わる時期。そこに関わるのだから自覚と誇りをもって指導をしていきたいと思います。私はこんなことを思いながら、これからも中学生に伴走していきます。
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