【桜美林・西東京】補欠の僕にとって、高校野球とは何だったのか?

高校・大学時代

こんにちは。相模原ボーイズという中学硬式野球チームでコーチをしています、中島です。

今回の記事では、僕が高校時代にお世話になった桜美林高校野球部について、3年間で学んだことを振り返りながら、時系列順に見ていきます。

《学んだこと》
・気合と根性は必要
・合理的なトレーニング
・役割があると人は腐らない
・自分の想いに嘘はつけない

町田市内を30分で駆け回る「大復活」

3月25日、高校入学を控えた中学3年生はこの日から高校野球の活動に参加することが許されます。僕もこの日、ドキドキしながら高校のグラウンドに行き、野球部の活動に初めて参加しました。

初めの頃は何が何だか分からないまま、気づけば一日が終わり、解放感の中帰宅、また早起きして部活に行くというサイクルが続きます。よく「毎日がセレクション」と言いますが、まさに極限の緊張状態で過ごしていたことを昨日のように思い出します。

入学して間もなく、練習メニューが一気に厳しくなった日がありました。ついに始まったのです。いわゆる「ふるいがけ」、徹底的に走らせて、ついてこれない人はそこまでだというやり方です。

桜美林高校には伝統的な長距離走メニューがありました。その名も「大復活」。桜美林はキリスト教系の学校で、淵野辺駅から徒歩20分ほどの学校の裏側には、聖書から名前をとった「復活の丘」という小高い散歩道があります。そこを含む坂道だらけのコースを一周して戻ってくるというのが「大復活」でした。

坂道の多い町田市のはずれを、坊主頭が駆け回ります。さぞかしおかしな光景だったと思いますが、当の本人たちはタイムリミットがあるのでそんなことはお構いなしに、ゆでだこのような顔でアップダウンを繰り返します。1日に5セット繰り返したこともありました。

やっとグラウンドに入れたかと思ったら次はポール間トレーニングです。これでも僕はキャッチャーだったので何回かはブルペンに”逃げる”ことができたのですが、それでもあの最初の半年は二度とやりたくないと思います。

桜美林高校野球部専用野球場。
奥に見えるのはスクールバスと中学校舎。
隣は人工芝のグラウンド。



そんな陸上部ライフは3年生の夏の大会直前まで続きました。この半年で得たもの、それは「はじめのうちは気合と根性が必要だ」ということです。桜美林高校は、甲子園優勝経験のある伝統校であり、OBからの期待も大きいのが特徴ですが、それでもかなり現代的な雰囲気だとは思います。

無駄を嫌う効率的な練習メニュー。進学校化の進む学校の雰囲気も相まってか、部内での暴力やいじめは一切なく、余計な心配なく3年間を過ごせました。もちろん、永遠のボール回しなどはあり、完全に科学的な現代野球集団ではありませんでしたが、それでも「熱血!」というような雰囲気はあまりありませんでした。

そんな環境でも、やはり、初めは気合と根性が重要です。それなりの緊張感が続く毎日。誰かに強制的にやらされているわけではなく、自分で選んだ道。やめることも許されています。それでも食らいついていく。

そこには合理的な理由や目的を越えた、精神的なタフさが必要だったことは間違いありません。

気合と根性は必要

トレーニングは計画されているもの

桜美林高校には週に何回か、トレーナーの方がくる曜日がありました。そこで新しいトレーニングを教わるのですが、中学・高校1年の夏までを陸上部ライフで過ごした僕にとって、緻密に計画されたトレーニングメニューは画期的でした。

ウエイト・補強・ランニングに大きく分かれていて、さらに細かなメニューが回数・秒数、休憩時間の長さまでもがきちっと決められて与えられていました。やみくもにただ追い込むのではなく、「なぜやるのか」「どうやってやるのか」「やったらどんな良いことがあるか」がそろったメニューは目からうろこです。

高1の中島
高1の中島

もっと早くこれを知りたかった・・・

それでも、ものすごく体が大きくなったわけではなかったのですが、一つ一つの動きの鍛え方を教わって、自分の身体が強くなるのを感じました。自分の身体を意識的に自分で動かししている感覚、これは中学まではなかったものでした。

トレーニングには
目的と理由がある。

補欠の僕が腐らなかった理由

高校2年生の夏、一つ上の先輩たちが引退するといよいよ自分達代になる。高校野球の主役の学年になっても、僕はスタメン出場の枠をつかむことはできずにいました。秋季大会の背番号は12。二枚目のキャッチャーという立ち位置でした。(実際には三枚目でしたが。)

中学3年生の時、僕は高校を選ぶのに野球以外のことを一切考えませんでした。野球をやるために桜美林高校に来た。そのために入学して、多少のしんどいことも耐えてきた。

それでも、スタメンは勝ち取れなかったのです。結局これは3年の夏まで変わることはありませんでした。練習試合の2試合目には出場機会をもらえても、1試合目にはブルペンに居たり、ベンチで相手チームのデータをとるのが主な仕事でした。

そんな僕が腐らなかった理由は一つしかありません。

僕には役割がありました。聞こえは悪いかもしれませんが、ブルペンキャッチャーという仕事は僕にとって、とても大切なものでした。誰よりもブルペンにいる時間が長く、グラウンドの中でブルペンを一番賑やかな場所にしよう。そう思ってピッチャーのボールを受け続ける毎日は、充実していました。

背番号「12」が僕です。

役割があると人は腐らない


終わる間際に気が付いた本音

ブルペンキャッチャーという仕事に誇りを持っていました。そこに自分の居場所があると思っていました。「スパーン!」と良い音を鳴らす。それが自分の仕事であり、それが楽しくて、ずっと続くものだと思っていました。

高校3年の夏、最後の大会です。西東京大会の場合、初戦は7月の前半。そのため6月頃からメンバーが絞られていきます。

毎年5月末に神奈川県の強豪私立、平塚学園との練習試合があるのですが、その遠征メンバーから漏れました。

そこから再びメンバーに入ることはありませんでした。

夏前の青々とした芝生、傾きかけた西日。6月のある日、小野路球場という野球場で、大会直前にメンバー外の3年生向けにノックが行われました。自分はなんでここにいるのだろうと、不思議な気持ちで外野からのバックホームをとったのを鮮明に覚えています。

何人かの同級生は、ノックを受けながらすでに泣いています。「ノックを受けている=少し早めの引退」なので、涙が出てくる気持ちもわかります。ただ、僕は泣きたい気持ちよりも、モヤモヤの方が勝っていました。

その帰り道です。
赤ん坊のようにわんわん泣いたのは。

今思い返してみると情けなくなりますが、とにかく人目をはばからずに号泣しました。同じ町田市にある小野路球場から桜美林高校までの帰り道、川沿いの暗い道、最後の大会で敗戦した瞬間よりも、この時の方がよっぽど泣きました。

この時はじめて気付きました。

やっぱり試合に出たかったし、野球をしたかった。最後の大会にも出たかったし、活躍したかった。学校の同級生にも応援してもらいたかったし、親にも自分がプレーしているところを見てほしかった。

全部本当でした。「自分には役割がある」という言葉の裏に隠していた”本音”でした。


「自分には向いていない」
「自分には○○がある」

人は弱いもので、本当の想いを様々な言葉の裏に隠して、本当の自分に嘘をつきます。しかもそれがわざとではなく、無意識のうちにやっていることだから難しいのです。

高3、最後の夏。このスタンドの中にいました。



本当に自分が心からやりたいこと。

これを口にするのは、恐ろしいことです。出来なかったときのことを考えると足が震えるほど怖いし、出来れば想像すらしたくないから。

だから、自分の想いを無意識に隠し、「なんでやるのだろう」と考えてみたり、「そもそもやる必要がない」「自分は他の人とは違う」という”言い訳”をつくり出してしまう。本当の自分から目を背けてしまうんです。

ここで、勇気をもって、自分のやりたいことに目を向けて、その目標に比べて圧倒的に力のない自分を受け入れること。

これが本当の強さなのだろうと思います。

人は自分自身からは一生逃げられません。人生で一番長く付き合うのは自分自身です。


こんな大事なことに気付いたのは、僕にとっての早すぎる夏の終わり、高3の6月末でした。

本当にやりたいことに
挑戦しないと後悔する

最後に

ここまで書いてきた通り、後悔がないと言ったら嘘になります。「やり切った」という気持ちがある反面、「もっとやれたのでは?」という思いもあります。

そんな思いを胸に、今は中学生に野球を教えています。伝えたいことはただ一つ、「とにかく自分と向き合うんだ」ということです。それは時にしんどいし辛いこと、目をそむけたくなることもあります。それでも、自分からは逃げてはいけない。

自分の指導の根幹にある大事なことを気づかせてくれた桜美林高校での3年間、かけがえのない時間だったと改めて思いました。

今回の記事はこの辺りで終わりにしようと思います。最後まで読んでいただきありがとうございました。

コメント

タイトルとURLをコピーしました