吃音の人を笑うやつほど愚か者はいない。自分の理解のためにも吃音症について調べてみた。

気ままに書いたもの

世の中には「吃音(きつおん)」といって、時々言葉が上手く出てこない人がいる。今回はそのことについての僕の考えをまとめてみた。

僕の周りの吃音

思うように言葉を発することができない。このような症状を「吃音(きつおん)」という。これまで22年間生きてきて、僕の周りにも10人はいないが何人かはいた。重度の吃音の人もいれば、軽度の人もいる。

詳しくは、国立障害者リハビリテーションセンター研究所のホームページを見てもらえればいいと思う。

症状は、リンク先にも書いてある通りで、

  • 「りーんご」のように、一つ目の音が伸びてしまう
  • 「りりりりりんご」のように、一つ目の音が重なってしまう
  • 「・・・っりんご!」のように、一つ目の音が出てこない

三つの症状に大きく分けることができる。小学校から大学までで、何れのパターンの吃音の人とも関わる機会があった。

気合でなんとかなるものではない

わかると思うが、吃音は気合で何とかなるものではない。人によっては小さい頃から治療したりすることもある。

これは僕が中学生の頃の話だ。
ボーイズの先輩に、緊張すると会話の一音目が出なくなってしまう人がいた。いつも会話する時には何も問題ないのだが、ある特定の場面で症状が出ていた。

ある特定の場面とは、ボーイズリーグの公式戦前に行われる資格審査だ。
資格審査とは、簡単にいうと公式戦に出場する資格があるのかどうかの確認だ。選手が一列に並んで、背番号を読み上げられると、自分の名前と生年月日を大きな声で答えなければならない。これが意外と緊張するのだ。

その先輩は、この資格審査で毎回、自分の名前をうまく言えなかった。当時の監督は、とくに焦らすようなことはなかったが、それでも最後の大会前には「最後くらいはしっかり言えるように」と言っていたのを覚えている。そして、先輩たちの最後の公式戦が終わったあと、「結局最後の最後まで言葉が出てこないような気持ちだから負けた」なんてことを言った。

もうチームから離れているその監督は、昔ながらのスパルタ野球をやる人だった。僕もかなり殴られ蹴られ、痛い思いもしたが、それでも人情味にあふれたその監督が好きだった。だが、その時ばかりは、少し先輩のことを可哀想だなと思った。

僕は重度の吃音に悩まされたことはないが、吃音の人のイライラやもどかしさは見ていればわかる。そして、気持ちではどうにもならないこともわかる。

吃音はそこまで珍しいものではない。意外と身のまわりにそういう人はいるかもしれない。少なくとも、その人が何かを怠けているから、集中していないから、言葉が出てこないのではないことを理解してほしい。

言葉を“紡ぐ”ということ

言葉を“紡ぐ”ということ。「紡」という漢字は、糸偏から成り立っていることからわかる通り、繭(まゆ)から糸を作るときに使われる言葉だ。小学校で繭や綿から糸を作った経験のある人ならわかると思うが、糸を手で作るという作業はとても慎重で繊細なものだ。

言葉を”紡ぐ”という時にも、とても丁寧な意味合いが込められている印象を受ける。詩を作るときに多く使われる表現だ。

いつも何不自由なく会話している多くの人にとっては、言葉というのは当たり前のものかもしれない。でも、一度そのことの難しさを体験した人ならわかるはずだ。言葉をつないで意味を伝えるという作業の難しさが。

あなたはどうやって自分の想いを相手につたえるか?
「拳で!」か?そんな時代はとっくのとっく、大昔に終わってる。今はもっぱら言葉だ。人間に与えられた、財産である言葉を使って、相手に自分の想いを伝える。言葉なんだ。それが手話であろうと点字であろうと、言葉なのだ。

私は「身体障害者」の不幸を完全に認めたうえで、彼らは人生をずしりとした重みでとらえる特権を与えられている、と確信しております。彼らこそ、―いかに偉大なことでも―何かをなし遂げるより「生きること」自身のほうがはるかに価値あることをわれわれに教えてくれる。いじめられ続けている生徒、仲間から軽蔑され続けている男、世間から嘲笑され続けている女も絶対的に不幸ではない。

中島義道『哲学の教科書』

引用したのは哲学の本で、「生きること」について書かれた部分だ。少し話が大きくなっているが、「生きること」を「想いを言葉にすること」と置き換えるとわかりやすい。

思いを言葉にすることの難しさについて考えたことのある人、またはそれを身を持って体感した人は言葉に対してとても真摯に、真正面から向き合う、素晴らしい人だと思うのだ。当たり前のように言葉を使い、当たり前のように人を傷つける人よりもうんと素晴らしい。時に苦しみながらも、必死に一つ一つの単語をつないでいく姿勢は、人間として「美しい」とさえ思える。

考えたことのない人はこの機会で一度、言葉を”紡ぐ”という行為の難しさ、複雑さ、尊さについて考えてみてほしい。僕も考え続ける。

最後に

実は僕も時々、緊張すると一つ目の音が重なってしまうことがある。就活の面接などで何度かあった。また吃音とは違うが、話をしていて、適切な言葉が見つからずに、沈黙を作ってしまうこともある。適当な言葉を出すのが怖いのだ。

だが、家族からも指摘されたことはない。友達から指摘されたこともない。おそらくそこまで気にならない程度なのだろう。自分でもそうなった時には焦るが、そこまで気にするほどではないと思っている。

誰からも指摘されないというのはとても大事だ。家族や医者、信頼している先生からのアドバイスはいい。それ以外の、周囲の冷やかしは絶対にやめてほしい。何不自由なく言葉を発することのできる人にとっては「滑稽」かもしれない。だが、笑ってはいけない。

必死に自分の想いを外に出そうとしている人を、どうして笑うことができようか。どうしてマネすることができようか。そのことの愚かさに気が付かずに、人を傷つけながら「笑い」を取っている人は、さぞかし「幸せな」人生を送っていることだろう。

 子どもは最初、軽く繰り返すくらいであれば、全く自分の症状に気づかないことが多いです。しかし、頻繁に繰り返したり、ことばが出ないことを経験すると、そのこと自体にびっくりしたり、うまく話せないことを不満に感じたりします。それでも、幼い頃は、その感情もその場限りの一時的なものです。それが成長とともに吃音も固定化し、うまく話せないことが多くなってくると、周囲の人から指摘される場面も多くなり、子どもは自分のことばの出づらさをはっきりと意識するようになります。その結果、話す前に不安を感じるようになったり、話す場面に恐怖を感じたりします。またうまく話せないことを、恥ずかしく思うようにもなります。このような心理は、成長の過程で「うまく話せない」という経験が増えれば増えるほど強くなります。

国立障害者リハビリテーションセンター研究所「吃音について」

このブログを読んでいる人は教育の現場に立つ人も多いことだろう。学生指導者が多いか。また、物好きな中学生や高校生もたまに読んでくれている。保護者の方も読んでくれている。

上の引用した文章にある通り、一つは周囲の人から指摘されたりする経験が、トラウマになるばあいがあるようだ。本人が一番わかっているだろうし、親も把握しているはずだ。第三者から言うのはなるべくやめておいた方が良いと思う。このことは心のどこかに置いてもらいたい。

長くなったが、今回の記事はここで終わりにしよう。


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