自分が尊敬している予備校講師に田島圭祐先生という方がいる。Twitterでその存在を知り、フォローしたのが始まりだが、そのtweetは面白いものが多く、また、苦労してこられた経験談などもある。国語の先生なのだが行政書士の資格も最近取得されて、本当に努力かな方だ。田島先生のつぶやきはいつも怠けている自分に気付かせてくれる。
そんな田島先生がブログの記事を紹介されていた。さっそく読んでみると教育者にはよくある失敗談の話だった。その中の一文がとても響くものだった。読んだ時、僕はなにか胸の奥底に鋭利なものを突き付けられているかのような感覚になった。
※記事はこちら 「てっちゃん」
まるで自分に向けて書かれたものではないかと思うこの記事だが特に印象に残ったのはこの部分だ。
予備校講師田島圭祐先生のブログ 『たじぃー争論』 「てっちゃん」(2013年4月13日)
お母様は、すがるような目で私を見つめて「うちの子をよろしくお願いします。」と頭を下げた。
私はそういう雰囲気がとても苦手だった。
情けないことに、当時の私はまだ思春期を引きずって生きていたのだと思う。
母の深い愛情に嫌悪感を抱いていた。
逆にたまの保護者会でお父様がいらして、そのうちの何人かに「うちの子供はひっぱたいても何してもいいから」と言われると、すごく気分が晴れる思いがした。
もちろん実際は生徒を叩いたことなどないが。
てっちゃんのお母様はその逆だった。
毎回お迎えの時にすがる目で「うちの子を・・」と言われるのが、辛くて辛くて嫌だった。
実は僕も同じようなことを感じたことがある。そして今もあまり変わっていない。母の深い愛情というものに嫌悪感を感じるのだ。田島先生の書いている通り、まだ思春期を引きずっているのだろうか。母に限らず、子どもの背後に親の強い思いを感じるとすごく嫌悪感を感じるのだ。
田島先生はこの記事の後半で「子を持って、嫁を見て、はじめて、てっちゃんの母の気持ちがわかった」と書いている。僕はチームの先輩指導者にも「子供を持たないとわからないことはあるよ」と言われたことがある。その時は何のことかわからなかったが、この記事を読んでようやくわかったような気がする。「過保護」な家庭を見たときの嫌悪感と、その言葉の意味もだ。
僕は一人前の指導者、教育者になるには人の親にならなければいけないと思う。やはり子供を持ってみないとわからないものはわからないのだ。だから、僕はコーチになって数か月が過ぎたころ、一人の選手に手を挙げたこともある。体罰がどうのこうのという話の前に、人様の子に手を挙げるなんて恐ろしくてできるもんじゃない。それを20歳にもなっていない僕は理解していなかった。もちろんどんな理由であっても選手に手を挙げることは二度としないと誓っている。
僕はいま、選手にどのように接しているかというと、生徒という感覚に近くなっている。少し前までは弟や後輩の感覚だった。最近は少しずつ変わってきた。お金こそもらっていないが、各家庭から大切なお子様を預かっているという感覚はわかってきた。それでもまだ、思春期を引きづっているのだろうか。時折、親の過干渉を見ると嫌な気分になる。そのあたりは徐々になくなってくるものなのだろうか。
親の気持ちがわかるまでは、自分の想像できる範囲内で、親の気持ちを想像する。そしてグラウンドに入ったら目の前の子供とのやり取りに集中して、子どもが喜ぶ結果を目指したいと思う。子供が喜ぶことが一番だというのは若造の僕でもわかる。
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