【映画・ワンダフルライフ】「人生の中で一番大切な思い出は何ですか?」 

生きること

この記事のタイトルを見て驚いただろうか?僕は別に、今から宗教の勧誘をしたいわけではない。

ただ、考えてみてほしい。「一番人生の中で印象に残った大切な思い出」と言われたら何を思い浮かべるか。

映画のあらすじ

物語は白い霧に包まれたモダンな建物で始まる。そこは死んだ人が天国へ行くまでの7日間を過ごす場所だ。

そこで何をするかというと、冒頭の問いのように、それまでの人生の中での一番の思い出を決めるのだ。その施設の職員はその記憶を思い出させるために、一人一人と丁寧に面談を重ねていく。

そして、思い出された記憶は、施設のスタッフによって映画として再現される。一週間後に完成した思い出のシーンの再現映画を見て、思い出に残る場面が鮮明に思い出されると、その時以外の記憶をすべて失って、死者は天国に旅立っていく。

この映画は、その施設(もちろん架空)の一週間をドキュメンタリー形式で記録したものだ。

静かな雰囲気で始まり、静かな雰囲気で終わる。BGMも含めて盛り上がるところは一か所もない。静かな夜に、一人映画を見たくなったらおすすめだ。

出演者の話し方でとても好感を持てた。あとで調べてみると、かなりの部分がアドリブのようだ。しかも演者には素人も含まれているらしい。

どこがアドリブで、どの人が素人なのかを予想しながら見るのも、この『ワンダフルライフ』の楽しみ方の一つだ。

人生を語るということ

実は、僕がこの映画を知ったのは大学の講義だ。何となくとってみた社会学の講義の中で、『ワンダフルライフ』が紹介された。

授業中に見る映画は前半の30分ほどで止められてしまうため、続きが気になり、「Amazonプライム」で最後まで見た。

どうしてこの映画が社会学の研究の対象になるのか。講義の内容に即しながら自分の言葉で説明しよう。

社会とは

社会とは何か。これを定義するのはとても難しい。文学部の歴史専攻で、集団や社会ということについて深く考えてこなかった僕にとって、いきなり聞かれても、答えを出せるわけがない質問だ。

一応ここでは「三人以上の集まり」や「その関わり合い」とでも言っておこう。

ライフストーリーの社会性

「人生を語る(=ライフストーリー)」ということは、一人でもできる行為だ。今、PCの前に座っている僕の周りに人はいない。いたとしても、それは背景にすぎない。この記事を読んでいるあなたもまた、大半がそうであろう。僕もあなたも、今すぐに自分の人生を語ることはできる。

だが、実は「人生を語る」ということは個人の自由な行為ではないらしいのだ。

映画の中で女子高生くらいの女の子の死者が登場する。その子は自らの人生の思い出を「ディズニー、スプラッシュマウンテン」といった言葉で表現するのだ。

しかし、のちに職員から、そんなありきたりなものはやめろとばかりに、もっと個性的な思い出を出すように諭される。

これと同じことが、個人が人生を語るときにも起きているというのだ。

何を語るべきか。
どう語るべきか。

人が自らの人生を語ろうとするとするときには常に、社会的な力が働いている。(らしい)

なるほど。でも確かにそうかもしれない。さらに言えば、自分の人生を語るときだけでなく、他人の人生を語るときにもそうだろう。

そこにはそれまでに読んだ小説、見たドラマ、映画、聞いてきた音楽、様々なものが無意識のうちに入り込んでいる。

だから、人生を語る―ライフストーリー―は社会学の対象になるのだそうだ。

自分だったら

今、自分が死んだら、果たしてどの瞬間を選ぶだろうか。

映画の中のおじさんは、中二の夏休みの前日が良かったなんて言っている。確かにその辺りの時期も良かったかもな。でもそれが一番か?

映画の中で、何人かの人ははsexがどうとか言っている。自分もそうか?いや違う。そんなに思い出に残ったものはない。

高校時代か?大学か?
一つになんて絞れない。それはもしかすると、まだ一番と言えることに巡り合えていない寂しい人生なのかもしれない(これから出会えるのならば寂しいことではないかもしれないが)。

ただ、今死んでしまったら確実に物足らない人生だということはわかった。もっと自分のやりたいこと、自分が人のためにしたいと思うことのために時間を、命を使わないといけないと改めて思わされる。

映画の中に、「生きた証を残して死にたい」と言って、なかなか思い出を一つに絞れない老人が出てくる。

その人が、記憶を思い出す手助けとして、職員が生前の七十数年間が記録されたビデオを手配するシーンがある。老人がまる一日かけてビデオを見ていくと、青年時代の部分に

何か生きた証を残して死にたいんだ。会社に就職して、そのまま、ずっと・・・言い続けて死んでいくってのは、嫌なんだ。。。嫌なんだ。」

というセリフが記録されている。

生きた証を探して70年以上過ごしてきたのだ。




自分もこうなるのではないかという、恐怖が湧いてきた。今は目の前のことに対して行動するしかない。

生きるって、死ぬってなんだ?

死んだらどうなるんだろう。

誰もが一度は考えたことのある問ではないだろうか。この映画だと、一つだけ思い出を持って、永遠の場所に行けることになっている。

映画の中には「8歳のときを選んだら、それ以外の記憶はなくなるんですか?そこは天国ですね。」と言った発言が出てくる。おそらくその人は辛い人生を歩んだのだろう。

ただ、一番を残してすべてを失ってしまうその場所は果たして本当に天国だろうか?


物心がついた頃、じりじりと暑い夏の日に家族で果物を食べたあの記憶は?

小学生の頃の席替えであの子の隣になれたあの時の胸の高鳴りは?

中学生の時に万引きがばれて、どんな顔で家に帰ろうかと、散々遠回りして帰った帰り道は?

高校時代の野球部での日々は?

大好きだった人に振られて大泣きしたあの日は?

大学に合格したときのみんなの喜ぶ顔は?

企業から内定をもらったときのホッとした瞬間は?

22年間、ここまで来るまで、書ききれないくらい、大切な瞬間はあった。そしてこれからもたくさん増やすつもりだ。一つだけ選べだなんて無理に決まってる。




もしかしたら、この映画のシステムはまだ優しいのかもしれない。

現実世界では、死んだらひとつ残らず消えてしまうかもしれないのだ。

死んだら何になりたいか?こんな質問を人に投げたことがある。だが、自分はその質問に上手く答えられない。

死んだ後の事なんてわからない。だが、死んだらいけないことはわかる。死んだら一つどころか何も残らないだろう。自分は生きている。生きているからいつかは死ぬのだが、今は生きている。はずだ。明日も、予定通りいけば生きている。

生きているうちは、頑張ろう。自分のために、自分の大切な人のために、自分を大切に思ってくれる人のために。

死んだらおそらく何も残らないのだ。実際は映画ほどうまくできてはいないはずだ。だが、それでも死を選びたくなる人がいる。自分がそうならないとも限らない。そんな人には、やさしく手を差し伸べられるくらいの強さは持っていたいと思う。

おわりに

生きているうちは何でもできる。こんなエゴにまみれた思いを書けるくらいには自由だ。自己肯定感次第ではいくらでも幸せな人生にできる。

それでも映画の中で死んだ人はこんなことを言う。

「ここへ来るまで、自分じゃ自分の人生に対して自信のようなものがあったわけです。それなりに幸せだったんじゃないかってねぇ。しかし、こうやって振り返ってみますと、何かが、物足りない。」

映画『ワンダフルライフ』是枝裕和

それなら自分のペースで、自分が自分を好きでいられる範囲内で頑張るのが一番幸せなのかもしれない。

最後に自分でも拍子抜けするようなことを書いてしまったが、この記事はこのくらいで終わりにしようと思う。

「死」についてはこれからも考え続けよう。

映画「ワンダフルライフ」

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